はじめまして!ERIです。
私のホームページにお越しいただきありがとうございます。
このページでは、Webライターである私がなぜWebマーケターを目指すことにしたのか、自己紹介とあわせてお伝えします。
ぜひ見ていただけると嬉しいです。
- 基本情報
- 幼少期〜小学生時代:毎日楽しく幸せな時期
- 中学生:両親の喧嘩からお金の大切さを学ぶ
- 高校生:人生はどうにかなる?盛大に勘違いした学生時代
- 大学生:受験失敗が再起のきっかけに!挫折からの努力で希望の光を見出す
- 新社会人〜26歳:大手企業での充実した毎日に漂う微かな不安感
- 27歳:予定していなかった恋人との別れ、人生の歯車が狂い始める
- 28歳〜31歳:ビジネスコミュニティへ加入するも絶望の淵を彷徨う
- 32歳〜33歳:ブログとの出会い|書くことの面白さに惹かれWebライティングの世界へ
- 34歳〜35歳:念願だった年収1,000万円のステージへ|月300時間労働と引き換えに
- 36歳〜:本当に理想とする未来を手にいれるべく、Webマーケティングを学び始める
基本情報
- 名前:ERI
- 性別:女性
- 生年月日:1986年9月5日(36歳)
- 出身:神奈川県横浜市
- 好きな色:黄色・ピンク
- 好きなアーティスト:乃木坂46(結成当初から好きです💜)
- 実績:クラウドワークス社 ライター部門 Pro Crowd Worker Top class
(eric95名義→クラウドワークス社 掲載ページ)
幼少期〜小学生時代:毎日楽しく幸せな時期
私は3歳まで関西地方で過ごし、幼稚園以降は横浜で育ちました。
土日も自己研鑽を欠かさないほど仕事熱心な父親と、当時専業主婦だった母親、3つ下の弟、周りの友達にも囲まれ、いわゆる絵に描いたような幸せな家庭だったと思います。
休日は家族で出かけることが多く、特に物心ついた頃には、東京にいる母方の祖母や伯母・母が銀座やデパートに連れて行ってくれました。
出かけるたびに何かを買ってもらっていたわけではないものの、食事は基本的にデパートの上のレストランか、ホテルのランチが多かったような記憶があります。
また祖母は洋菓子の師匠に弟子入りし、コンクールがあれば日本とフランスを往復するようなパワフルな人、伯母は子供がいないものの薬剤師の資格をもち某大学病院で院長秘書をしており、「大人ってすごいな〜」と感じていました。
母や専業主婦でしたが料理への情熱が半端なく、毎日のご飯はもちろんおやつまで手作り。小学生の頃はスナック菓子を食べたことはほとんどありませんでした。
大手企業の会社員として働いてた父は、小さい頃は一緒に遊び、勉強も教えてくれました。
私が小学校高学年になり一緒に遊ぶ時間が減ると、父は新たに語学の勉強を始めました。
平日は遅くまで仕事をし、土日も朝から勉強する父を見て、当時は「仕事や勉強ばかりで人生楽しいのかな?」と疑問に感じたことも多々。
今では、私の性格や価値観・仕事に対する姿勢は、父をはじめ子供時代の周りの人の血を引いたんだなと強く感じます。
同時に、子供時代の記憶や経験が、大人になったときに自分を苦しめるとは、この時は思いもよりませんでした。
小学校に行けば友達に囲まれ、4年生で転校した際も明るい友達に受け入れてもらいました。
毎日を過ごすうちに、小学校4年生の時に気づいたら塾に通っており、そのまま中学受験をしました。
結果は、4校受けて3校合格。
第一志望に落ちたものの自宅から遠かったためか悔しさはあまりなく、合格した3校から一番行きたいと思った女子校を自分で選んだ記憶があります。
中学生:両親の喧嘩からお金の大切さを学ぶ
希望の中学に進学し、パワフルな友人に囲まれながら毎日を過ごすなかで、世間には「ヒエラルキー」というものがあることに気づき始めたのはこの頃でした。
いわゆる現代の「一軍女子」「二軍女子」「三軍女子」みたいなものが当時もあり、私は一軍への憧れを持ちつつギリギリ二軍にとどまっていたような。
キラキラした女の子になりたい、でもそういう性格ではないし、、、と考えながら過ごす毎日には、なんとなく辛さもあったように感じます。
肝心の勉強は、中学では中の中〜上を行ったり来たりしていました。
中学3年生のときに携帯が欲しくて親にお願いしたら「(学年200人中)全科目の総合が上位50人以内に入ったら買ってあげる」と言われ、結果は52位。
携帯は押し切って買ってもらいました。笑
この頃から両親がお金に関して喧嘩をすることが増えました。
増えたというよりも、常に喧嘩をしていた印象があります。
3つ下の弟は中学受験をするための塾に通っている時期、私は私立中学の学費がかかる時期です。
また察するに、母は子供時代お金がある環境で育ったのでしょう。贅沢をできないことに大きなストレスを感じていたのだと思います。
後に知ったのですが、この頃父は年収1,000万円以上を得ていたそうです。
お金がかかる道をあえて選び、私と弟を育ててくれたことに、とても感謝しています。
ただ当時はそんなこと知る由もなく「お金がない」を理由に毎日喧嘩をする両親を横目に、私は晩御飯が終わったらすぐに部屋に引きこもるようになりました。
お金がないことはこんなにも大変で、いがみ合ってしまうんだということを、この頃から嫌というほど擦り込まれていました。
高校生:人生はどうにかなる?盛大に勘違いした学生時代
中学に入ってヒエラルキーに嫌感を感じた私は、元々負けず嫌いだったのでしょう。
毎日のように起こる両親の夫婦喧嘩に心を痛めながらも、高校に上がってからも必要な勉強はそこそこ続けていました。
中高一貫校かつ進学校でもあり、高校2年生以降のクラス分けは成績順でした。
結果、私は文系の一番上のクラスに入りました。
しかし勉強はしていたものの少し成績が落ちていた時期で、上のクラスに入れたと分かったときに感じた違和感は間違っていませんでした。
ある日、廊下の立ち話で担任から聞いた衝撃の話、、、
それは「高校1年前期の成績で並べたときは上のクラスにいたが、後期の成績で並べたら私は下のクラスに落ちた」という事実でした。
つまり後期のテスト後に開かれた、クラス分けを最終決定する職員会議において「私または順位が入れ替わった子のどちらを上のクラスに入れるかで揉め、最終的に私が上のクラスに入った」という話だったのです。
今でこそ、学校のクラス分けは大人が意図を持って行っていることは理解できますが、当時高校2年生だった私には理解ができませんでした。
これを聞いた瞬間はショックでしたが、同時に感じたのは「そこそこ頑張っていれば、私の人生どうにか好転しそうだな」ということでした。
今考えたら、なぜこんなにもポジティブだったのだろうと思います。笑
思い返してみると、それなりに頑張ってきた結果、大きな失敗をしたことがありませんでした。
中学受験も自分としては満足する結果、携帯は52位なのに押し切って買ってもらった、高2のクラス替えも大人がなんとかしてくれた。。。
「そこそこで頑張っていれば、人生どうにかなる」
こう捉えた私は、このノリのまま大学受験に突入します。
第一志望は早慶レベル、でもちょっと難しそうだからMARCHくらいに行ければいいかなと思っていました。
いくつも塾に通い、模試も頻繁に受けました。判定は毎回D〜Eくらいだったと思います。
この状態で受かるわけはありません。笑
しかしそれでも「受験本番までにどうにかなるだろう、なんだかんだ言って受かるだろう」と、本気で信じていました。
全く勉強していなかったわけではないですが、明らかに勉強量が足りなかったと今では思います。
大学受験本番の結果は惨敗で、滑り止めの女子大に1校と、なんとなく偏差値の間を取って受けた1校の合計2校に受かったのみ。
もう1年勉強することを毛頭考えていなかった私は、滑り止めの女子大に行くことにしました。
仲が良かった同じクラスの友達は、当たり前に早慶に受かっていて、ここで人生初めての挫折を味わうことになります。
ちなみに大学受験に失敗したことを、親から責められることは一切ありませんでした。
「あんなにお金をかけてもらったのに……」
素直に謝ることもできないまま、全力で勉強して上位校に入った友達がとてもまぶしく見えたのを憶えています。
大学生:受験失敗が再起のきっかけに!挫折からの努力で希望の光を見出す
超絶ネガティブな感情を抱えて大学生になった私は、入学時に「大学4年間で自分ができる最大限の努力をし、社会に出るタイミングで高校の友達に追いつく」という目標を立てました。
大学受験の失敗から「得たい結果があるなら、自分ができる最大限の努力をすることが必要不可欠」ということを学んだのです。
今考えたら当たり前ですが、このタイミングで気付けたことはとても大きく、私の人生の転機となったと思います。
何をもって追いつくとするのかを考え、「誰もが知っている有名企業に就職すること」を目標とすることに決めました。
大学では学園祭の実行委員会をやりたいと元々考えていた私は、就活が始まる直前の大学3年秋までこの活動に打ち込みます。
3年次にはパンフレットへの広告掲載を担当し、広告掲載件数・収益額の両方において過去の学園祭史上最高の数字を達成!
もちろん私ひとりの力ではありません。仲間と一緒に仕事をし目標達成することに、これほど大きな価値と喜びがあることを学んだ時期でした。
就活のためという目標を忘れるほど、学祭の活動に打ち込んだ私は、当時の就活市場の風向きにも助けられ、順調に就職活動を進めることができました。
学生時代に打ち込んだこと(今でいう「ガクチカ」)が、営業に近い側面があったことや、数字で定量的に測りやすい結果だったことも相まって、就活は順調に進み、大手企業4社から内定を得ることができました。
そのなかで自分が興味をもった仕事であること、他業界と比較して給与水準が高いことから、当時人気企業ランキングの上位であった大手損害保険会社への就職を決めます。
両親がとても喜んでくれて、高校時代の友達にも追いつけたように感じて、これから始まる社会人生活にワクワクしていました。
何よりも大学時代のこれら2つの経験は、人生で初めて最大限の努力をして得た結果でした。
「私は自分の努力によって結果が出せる人間なんだ」
大学時代の経験から、私は人生で初めて大きな自信を得たのです。
新社会人〜26歳:大手企業での充実した毎日に漂う微かな不安感
自分が行きたいと思っていた企業に晴れて入社し、アメとムチを使い分けながら私を育ててくれる心優しい先輩方、優秀な同期に恵まれ、充実した毎日を過ごしていました。
おこがましいですが、入社すべくして入社したと思いましたし、同期のなかで一番になろう!と意気込んでいたことを思い出します。
社会人になってから人生初めての恋人もできました。初彼氏が23歳とは遅めかなぁとは思いますね。
実は就職活動で金融機関を選んだ理由の1つが「社内結婚するかもしれないから、男性がそれなりの収入を得ている会社がいいな」というものでした。
冗談のようで、本人はいたって本気です。笑
そして念願叶って、入社1年目の冬に同期とお付き合いすることになりました。
仕事も恋愛も順調!唯一の悩みは、お付き合いしていた彼の浪費癖。。。
私はどちらかと言うと、本当に必要なことにだけお金を使う節約タイプですので、彼を含めてあればあるだけお金を使ってしまう人が信じられませんでした。
ギャンブルはなかったものの接待という名目のキャバクラはありましたし、入社1年目の末席ゆえに飲み会幹事で全額をクレカで立て替える→全員から現金で集金→クレカの引き落とし日前に現金を使い切る。。。
上記のルーティンを何度見たことでしょう、、、
しまいにはカードの引き落としが入らず、会社から借金(個人ローンとしてお金を借りられる福利厚生制度)までしていました。
借入をすると、葉書で通知が届くので、わかってしまうんですね。
この人は大丈夫なんだろうか、好きだけど結婚を考えていいんだろうか、、、と何度も悩みました。
うっかり私の金銭感覚がしっかりしているために、もし結婚したら私が財布は管理すればいいかなと思いながら、常時20万円くらいは貸していた気がします。笑
(もう憶えていないですが、一部不良債権になったような)
「一緒にいるときは楽しい、でもこの恋愛大丈夫・・・?」
初めての彼氏、しかも同期で将来の高収入が約束されているようなもの、、、私は本当に向き合うべき自分の気持ちに蓋をし続けていました。
恋愛の悩みから目を背け続ける一方で、仕事はしっかりやっており、それなりに順調でした。
私は地域限定総合職(当時の業務職)入社で、同じ職員区分で入社した同期のなかで一番になる!と意気込み、日々の業務はもちろん会社で推奨されている資格は相当数取りました。
私が証券外務員特別会員1種を取ったために、先輩たちまで取るように上長から言われていてしまい(飛び火)、その節はご迷惑をおかけしました。。
しかし、それほどの勢いで仕事をしていることに自信と誇りがありましたし、彼氏もいるし自分の未来は明るい!と充実した毎日を送っていました。
当時お付き合いしていた彼とは順調に続き、入社4年目になる直前の3月、ついに彼が異動になりました。
「ついに!この時が・・・!」
とても嬉しかったの憶えています。
というのも、金融機関ゆえに転勤がとても多く、そのタイミングで結婚をする人がとても多い会社だったのです。
さらには「1年以内に私たちは結婚します」という書類(なんと会社指定帳票)を作成して2人で印鑑を押し人事部に提出すると、異動する男性が前倒しでファミリー用の社宅を借りられるという素晴らしい制度までありました。
もちろん、2人で印鑑を押して提出。転勤先の家探しは私も一緒に行い、転勤先の上司にも紹介してもらい、こうして順調に結婚に向けて歩き出した、、、はずでした。
27歳:予定していなかった恋人との別れ、人生の歯車が狂い始める
丸3年以上お付き合いをした状態で彼が異動したため、4年目は遠距離恋愛となりました。
彼の異動直後は旅行気分で楽しく1ヶ月に1回くらい会っていましたが、夏休みの旅行、9月の私の誕生日、クリスマスが過ぎ、、、
気付いたらもう年末でした。いや、気付かないふりをしていたという方が正しいです。
ファミリー用社宅を前倒しで借りたときの条件は、「1年以内に結婚すること」です。
この書類に2人で印鑑を押した=1年以内に結婚するだろうと思い込んでいた私に対して、彼の「ひとまず押印しただけ(早く家決めたかったし)」という認識相違に気づいたときにはもう遅かったのでしょう。
彼にどうするつもりなのか意を決して尋ねた結果、、、
「今すぐは結婚できない」
私は目の前が真っ暗になりました。
ちなみに、別れたいわけではないとのことでした。
これからどうしようと悩んだ結果、彼の浪費癖が気になり始め、あの人と結婚して本当に幸せになれるのだろうか・・・?と疑問を持った私は、別れることを決断します。
年明けの2月、バレンタインを渡して楽しい時間を過ごして、3泊くらいしてお別れしました。
まさか彼は別れを告げられるとは思っていなかったようで、結局お互い別の角度で頭の中お花畑状態だったのだと今では思います。笑 似たもの同士だったようですね。
でもさすがに4年間もお付き合いしていたので、帰りの飛行機は号泣でした。
こうして私の初めての恋愛は幕を閉じます。
彼と結婚すると長年信じ込んでいた私は、将来どうすれば良いのかわからなくなり、ひとまず土日は合コンや街コン・婚活パーティーなど外に出かけまくっていました。
その過程で再会した大学時代のサークルの男性友人から、ある女性経営者Aさんを紹介されたことをきっかけに、私の人生は大きく激変していきます。
「恋愛は同じレベルの人間でしか成り立たない。稼いでいる素敵な男性と結婚したいなら、自分が稼ぐステージに上がった方が早い」
こう感じた私は、それまでの人生で一度も思い描いたことがなかったビジネスの世界に初めて足を踏み入れたのです。
28歳〜31歳:ビジネスコミュニティへ加入するも絶望の淵を彷徨う
控え目に言ってよこしまな理由でビジネスを開始した私でしたが、だんだんとその活動にのめり込んでいきます。
私が加入したのは、ビジネスコミュニティのようなところです。
MLMではないものの、コミュニティ内でビジネスモデルが確立されていて、そこで成果を出すとお金が入ってくるような仕組みでした。
毎週土日に行われるセミナーはしっかり参加し、平日夜は人と会う、いわゆるビジネス活動はしっかりやりました。
ビジネスモデルに乗ってお金を稼ぐためには友達を増やす必要があったので、私は合コンを開きまくっていました。
一緒に頑張っていた仲間は路上で声かけ(つまりナンパ)している人もいましたが、私はどうしてもできなかったので、飲み会を開くしかありませんでした。
多いときは月15回ほど、1日2回転(18時スタート、場所とメンバーを変えて20時半スタート)やっていた時代が懐かしい。。。
目標を高く持つ仲間と一緒に夜遅くまで一緒に作業したり、イベントを企画したりと、なんだかんだ言って毎日楽しく、そして頑張っていました。
経営者として成功するために大切な価値観や考え方・捉え方、人を大事にすること、自分の在り方など、物心両面で豊かになるために欠かせない価値観を全てここで教えていただき、とても感謝しています。
今となっては自分の人生を語るうえでこの時期は欠かせませんが、当時は悩みながら走っていたのも事実です。
独立したい気持ちは本当、師匠である女性経営者Aさんのことも、一緒に頑張っている仲間も大好き。
「でも本当にこの仕事でいいんだろうか。」
毎日楽しかったものの、コミュニティ内で成果が出ない自分を客観的に見ながら、心の奥でつかえているものを取り除けないまま、闇雲に時間だけが過ぎていきました。
あれほど努力して入社した大手企業は、ビジネスコミュニティに加入して1年経過した頃に退職しました。
誰から言われたわけでもない、全て自分で決めたはずなのに、退職したこととコミュニティで頑張っていることは長らく親に言えませんでした。
そして、大手企業の安定した職を捨てた私は、時間を作るために派遣の仕事に就きます。
コミュニティ加入当初800万円あった貯金は、3年経過した頃には400万円まで減っていました。
「私がしている努力は本当に正しいのか、、」
「私はなんて親不孝者なんだろう、、、」
毎日楽しいと思いながらも、この頃からコミュニティの活動に人生をかけることに疑問を感じていました。
努力の方向性は正しいはず。なのに結果が出ない。でもここで辞めたら、本当に何もなくなってしまう。。。
「コミュニティを辞めないつもりなら頑張り続けるしかない」と、一筋の光だけを追い求めていた時期でした。
32歳〜33歳:ブログとの出会い|書くことの面白さに惹かれWebライティングの世界へ
コミュニティでの活動にちょっとした違和感を感じながらも、続けていればいつか成果が出るはずと信じて私は毎日頑張っていました。
そんななか、コミュニティ内のある経営者の方から「ブログを代行して書いて欲しい」という依頼を受けます。
報酬は0円、その代わりに書いたブログは私の実績としてOKという話でした。
飲み会をしまくって友達を作ることに飽きていた私は、二つ返事でこのお話を受けます。
これが私とWebライティングの出会いです。
その後必死にブログを作成することを通じて、書くことの面白さを知りました。
次第に自分が作成したブログ記事を褒められることが増えた私は、自分の力でお金を稼げるのか、どの程度世の中に通用するのかを試してみたくなり、自分で案件を探し始めます。
初めての受注をし、指示をいただきながらに案件をいくつか獲得し、納品。
時間がかかったものの収入が発生して嬉しかったのと同時に、これは稼げるようになるまでに結構な時間がかかりそうだ、、、とちょっとした虚無感を覚えたのも事実です。
相変わらずコミュニティの活動を辞めるつもりはなかったものの、ライティングももっと学びたいと感じるようになったため、時間を見つけて案件を取っていくようになりました。
3つ目くらいの案件で、ありがたいことにほぼ未経験の私にフィードバックを通じてライティングを指導してくださるディレクターのSさんに出会い、記事の書き方や日本語表現など、多くのことを教えていただきました。
月に数本ずつでしたが、Sさんには半年ほどお世話になり、初めてSEOで1位を獲得したときはとても嬉しかったです。
ちょうどその頃、派遣契約が切り替えの時期で、私は派遣(フルタイム)でライターの仕事を受けることに成功します。
Sさんに教えていただきながら作成したアウトプット(記事)をポートフォリオとして、仕事を獲得することができたのです。
小さな仕事を重ねて、大きな仕事を獲得することに成功した瞬間でした。
当時コミュニティの活動をまだ頑張っていた私にとって、派遣社員×ライターとこのうえない条件で仕事ができることに大きな喜びを感じていました。
派遣先でも人に恵まれ、ライティングを教えていただきながら仕事をした結果、10人のインターン生の教育係やディレクションの一部をやらせていただくなど、私が初めてしっかりとWeb業界に触れた期間となりました。
未熟なところから育てていただき、とても感謝しています。
34歳〜35歳:念願だった年収1,000万円のステージへ|月300時間労働と引き換えに
コミュニティの仕事を続けながら、ライターとしてフルタイムで働き始めたところ、毎日が楽しくなったのか、今度はコミュニティの仕事が上手くいくようになりました。笑
人って単純ですね。ワクワク楽しい毎日を過ごしていると、それが周りに伝わるんだと思います。
コロナが初到来した年で外出自粛ムードにも関わらず、私のビジネスが絶好調だったことから、コミュニティ内で推薦を必要とする研修に行けることが決まったのです。
この研修に行くことは私にとって1つの目標であったため、最初にお話をいただいたときは長年頑張ってきたことが報われた気持ちになり、すごく嬉しかったです。
そして研修の日までやれることをやろうと全力でコミュニティの活動に取り組むも、調子の良さが一過性のものだったのか、すぐに失速しました。苦笑
推薦から研修当日まで4ヶ月ほどの期間があったこともあり、結果として、絶不調の状態で研修に参加することになります。
なお研修の内容自体はコミュニティの仕事に特化したものではなく、人生や仕事全般に役立つものであり、研修内容はしっかり吸収して帰って来ました。
ここで私はついに、コミュニティの活動を辞める決断をします。
理由としては、1つの目標としていた研修に参加できたことでやり切った感があったのと、コミュニティを紹介してくれた大学時代の友人から、IT系で法人を立ち上げるから一緒にやらないかと誘われたためです。
ライティングの仕事も好きだったので一晩悩んだ結果、
- フルタイムで入っているライティングの仕事を成果報酬型に切り替えてもらい、継続する
- 友人のIT案件にフルタイムで入る
という二足のわらじで進めることに決めました。
当時研修から帰ってきたばかりだった私は、自分の可能性に最大限挑戦する人生にすると改めて決めた直後だったため、自分がどこまでできるのかを試したくなったのです。
「結果が出ないなりにも、時間とお金をかけて、成功するために必要なマインドを学んできたはず。自分がどこまで通用するのかを試したい」
ITに関しては全くの未経験でしたが、教育プログラムのようなサポートを受けることができ、しっかり学べば近い将来大きく稼げると理解したので、やってみよう!と決断しました。
これからの未来にワクワクし、挑戦できることへの喜びを噛み締めながら毎日を過ごした2ヶ月目、、、まさかの事態に発展します。
私に声をかけてくれた大学時代の友人(=社長)が急にモラハラ化したのです。
みんなの前で罵られ、さすがに手をあげることはないものの、急に怒鳴ったりキレ出したり、逆に無視したりが当たり前の状態。
もともと温厚とは真逆のタイプの人ではあったとは言え、付き合いが長かったこともあり、私はどうするべきなのか答えが分かりませんでした。
私に対してだけこうなった理由はいくつか考えられますが、おそらく彼は社長になったことでセルフイメージが上がった一方で、私は今まで通りの友人付き合いとして接していたため、彼から見たときに私は気に食わない存在になったのでしょう。
(ちなみに他にも2人メンバーはいたのですが、なぜか私だけが攻撃されました)
毎日毎日、彼からの暴言を受けるうちに私も気が狂い始め、さらに1ヶ月後には本当に頭がおかしくなったような感覚からついに生命の危機を感じた私は、最終的に業務時間中の一瞬の隙をついて脱走しました。
こうしてまさかの3ヶ月で友人が立ち上げた会社を辞めることになったのです。
約1週間ほどのお休みを経て、これからどうしよう、、、と悩んでいたとき、わずか3ヶ月ですが学んだITの知識があることに気づきました。
そこでコミュニティでの活動で身につけた圧倒的なコミュニケーション力も最大限に活かし、ITフリーランスのPMO案件を獲得します。
翌月には改めて二足のわらじ生活をスタートさせ、この生活を約2年間続けました。
- ITのPMO案件:170時間/月
- Webライター:130時間/月
合計:300時間/月
「稼ぎたい」「自分がどこまでできるのかをやってみたい」の一心で毎月約300時間働き続け、月の合計収入は変動するものの約65〜90万円を達成。
年収1,000万円には届かなかったものの、現実的に手が届きそうなところまで近づくことができました。
その後、36歳の誕生日には自分の事業を法人化し、今また新たなチャレンジを続けています。
ちなみにIT案件は途中で変えており、2案件目に携わらせてもらった先はなんと、新卒で入った大手保険会社です。
ほぼIT未経験ながら、保険の実務経験があることに加えてベンダーや関係各所とのやり取りに欠かせないコミュニケーション力があることが評価されたようです。
今まで私がやってきたこと、嬉しいこと・苦しいこと全てに無駄なことはなかった、正しい努力を続ければ人は報われるんだと強く体感した2年間でした。
(ちなみに減ってしまった貯金400万円は、収入が爆伸びし始めてから約8ヶ月で回収しました。長年かけて投資した金額を短期間で回収&プラスに転じたのも良い経験です)
36歳〜:本当に理想とする未来を手にいれるべく、Webマーケティングを学び始める
こうして1つの目標であった年収1,000万円のステージに大きく近づき、法人化も達成した約半年後、私は1年半近く続けていたITの仕事を辞めました。
理由はいくつかあり、主に以下のようなものです。
- Webライターの仕事が面白いと改めて思った
- これからはWeb業界で仕事をしたいと思った
- Web業界のことを勉強するためには、時間を作る必要があった
- 成果報酬型のライティング案件を、フルタイムの契約(準委任契約)に切り替えられる可能性が高かった
- 法人を設立したことで物事の見え方が変わり、新しいチャレンジをしたくなった
一番大きな理由は、純粋にライティングに感じる面白さから、もっとWeb業界のことを勉強し今後はそちらで事業を進めていきたいと考えたことです。
特に、成果報酬型のライティング案件をフルタイムの契約(準委任契約)に切り替えられそうだった点は大きかったですね。お金が一定確保される予定でしたから。
ただ、ベンチャー企業であるクライアントは、朝令暮改がしょっちゅう起きる環境であるため、私がIT案件を辞めた段階でもう一度話そうということになっていました。
結果として、直近1ヶ月で私が参画予定だったプロジェクトは中止となってしまい、私がやりたかった案件は本当に無くなってしまったんです。
また、毎月300時間働いているために新しいことをインプットする時間がほとんどないことにずっと危機感がありました。
2023年の今、世の中は怒涛の速さで進み続けています。自分が変化と前進を続けなければ、世の中から置いていかれてしまうでしょう。
さらに300時間労働は不可能ではないものの、3年後・5年後も、今と同じように300時間働けるとは限りません。体に無理がたたっていることは、薄々気づいていました。
「もっとWebのことを勉強したい」
「Web業界でさらに上流の仕事も経験してみたい」
「時間と収入の両方において、自分の理想を達成したい」
これらの理想を全て達成するために、私は新たな次の挑戦として「Webマーケティングを学ぶ」ことに決めました。
Webマーケティングを学ぶことで、時間と収入の両方を手にいれ、自分が理想とする未来に向かって突き進みます!
そこで本サイトでは、Webライターである私がWebマーケティングを学び、Webマーケターとして1年後に月収50万円、2年後に月収100万円を稼ぐまでの道のりを余すことなく紹介します。
Webマーケターとして独立するために必要な全てのノウハウを余すことなく発信しますので、ぜひチェックしてみてくださいね。
今、Webライターをされている1人でも多くの方に届き、お役に立てることを願って。